ATC〜そのアイディアは教室に持ち込める?
さて、戻りますか
前回はブログ復帰第一弾ということで、過去半年の自分のことを書きました。今回から英語や英語教育の内容に戻っていきたいと思います。今日のキーワードは ATC=Applicability to Classroom、つまりアイディアや指導法などが「教室に持ち込めるか?」という視点です。このフレーズは教育学の様々な文脈で用いられているようですが、私は「アイディアの学習現場での実現可能性」という意味で用います。
残念な現状
大学院入試のために、研究テーマをエッセイにまとめて提出することになり、ネットで英語教育に関する最近の記事を検索する毎日が続きました。そこで、主に大学における英語教育関連の諸研究にある共通点を見つけました。何だと思いますか?様々な指導法や授業活性化のアイディアが議論されているのですが、どれもこれも結局は「先生のがんばり」にかかっているのです。「この指導法は教師への負担が大きいが、有効性が期待できる」などと平気で書かれています。それでいいのでしょうか?
成果あってこそ
教育活動は純粋学問ではないので、学習者に成果が出なければ失敗です。「実際の指導には生かせなくても、理想的な教育方法を考察することそのものに意義がある」と考える人は少ないと思います。つまり、教育方法は現実的である必要があります。
私は勤務する会社の品質管理部門が外部に発信する英文をチェックする機会が多いのですが、ほんの数行を添削して担当者に戻すのに、30分程度かかることもざらです。元の英文のどこが英語的発想と違って、どう考えれば自然な英文になるのか、文法ミスの訂正を超えたアドバイスをしようとすると、どうしても時間がかかります。
これがもし、高校の英作文の授業だったらどうでしょうか?英語で「書ける」ようになるには、文単位の「和文英訳」のみならず、最初から英語である程度の分量の文章を書く練習が欠かせません。しかし、40人のクラスでレポート用紙1ページの分量の作文を書かせて、丁寧な添削をすればどのくらいの時間がかかるでしょうか?1人分をたとえ10分で済ませても、40人分だと400分、つまり6時間以上かかってしまいます。実際は先生方にそんな時間はないので、本質的な作文の授業は展開できず、結果として問題集の解答を解説するような作文の授業になってしまうのです。
私も教師時代、理想を抱いて生徒に英作文を書かせたはいいものの、自宅で夜中までかかっても添削しきれず、結局夜遅くの職員室でシュレッダーにかけたことがありました。先輩の国語の先生に相談すると、「私も作文で焚き火したことがある」と聞かされました。
学校で起きていること
今年出版された、妹尾昌俊さんの『教師崩壊 先生の数が足りない、質も危ない』(PHP新書, 2020)に詳説されているように、今の先生方にはとにかく時間がなく、労働環境は過酷です。先生方がそれほど忙しい理由については別の回に考えるとして、そんな現場に対して「この指導法は教師への負担が大きいが、有効性が期待できる」などとは、私は言えません。「教師への負担が大きい」方法は現実的ではないので、つまり教育学の研究としては失敗なのだと思います。
では、どうするか?
私は上の英作文指導の例では、指導法や授業活性化云々というよりも、「添削に400分かかる」部分に働きかけたいと思うタイプです。もし今400分かかる添削が、40分で済めば?あるいは4分で済めば?もちろんクオリティを落とさずに、です。「そんなことができるはずがない」と言われそうですが、そうでもありません。もちろん、AIの力を借ります。
Ready Steady Go!
準備期間だった半年間
5月に最後の記事をアップしてブログの方針転換を宣言してから、半年弱記事をアップできずにいましたが、実は新しいアプローチを可能にする手段を手に入れるための準備を進めていました。「国際競争力」「AI の進化に合わせた方法論」「日本のローカル事情」の3つが『英語教育 Cubed』の3つの軸ですが、「国際競争力」は軸でこそあれ自分一人でどうこうできるものではなく、「日本のローカル事情」は地道な読書と人間観察で考察を深めるしかないと考えました。一方、「AI の進化に合わせた方法論」は新たに勉強して仕入れることが可能な部分ですが、独学できるほどの根性はないことから、どうしたものかと思案していました。
社会人大学院
ヒントをくれたのは仲間たちでした。昔よく集まっていた8人グループのうち、一人はアメリカの大学の大学院MBA課程をフルタイムで働きながら日本校で修了、MBA取得。もう一人はフルタイム大学院生となり、なんと研究科首席で修了!別の環境での友人は、異業種転向のために専門学校で勉強して卒業、国家資格取得。一緒に仕事をしていた中国の請負先企業の担当者は、キャリアアップのために中国国内で大学院進学。「学び直す」社会人を多く見ているうちに、自然と自分もそうしようと思うようになりました。自分も昔大学院生時代にはそれなりに一生懸命勉強したつもりでしたが、社会経験がなかった分、問題意識が浅薄だったことを改めて痛感しました。
数学⁈手計算?
そのような経緯で、働きながら通える某大学の大学院AI 研究科を受験することを決意。しかし決意したはいいものの、学部から大学院とずっと純粋文系で、数量的なアプローチといえば統計学の初歩くらいしか知らなかったので、まずは大学院入試を突破することが最初の難関に。なんと入試では電卓も使用不可(つまり手計算)ということで、中学・高校数学の参考書や問題集と合わせて、小学生用の計算ドリルを買って勉強を始めたのが5月、ちょうど最後の記事をアップしたころでした。選考では、研究テーマについての小論文を事前に提出し、次に数学・統計学や論理問題を中心とする筆記試験。どうにか通過して、二次試験は研究テーマについてのプレゼンでした。9月末にどうにか合格通知を頂き、ブログにも無事帰ってきたというわけです。
学んだこと
指導教官となる予定の教授からは、「4月に入学するまでに、これとこれを勉強しておいてね〜」と山のような課題が積み上げられました(800ページ位ある洋書もあり、恐るべし)。でもそのメールを見て、自分が心底ほっとしているのに気づいたのです。というのも、合格発表後の一月は、やはり気が抜けてしまって少し生活が緩んでいました。しかしなぜか、「入試から解放されて楽だ」という気持ちとは無縁で、毎日進歩していないことから来る不安が大きかったのです。時間を惜しんで勉強して、その成果が見えて、金曜夜には「今週はここまで来た」と思える毎日の方がずっと楽しく、楽だったことに気づきました。「楽しい(たのしい)」と「楽(らく)」はやはり同じ漢字なのだ、と思いました。
一昔前では一般的ではなかった、「社会人が思い立って学生時代の専門とは別領域の大学院に進学する」ということ、それが可能になった現在と、それを可能にしてくれた大学および先生方に感謝しつつ、これからは着々とブログ記事もアップし、入学までの宿題に取り組んでいきたいと思います。もちろん、日々の仕事も無責任と言われない程度にこなしつつ。
『英語教育Cubed』へ出発!
新学習指導要領
今年からの数年で英語に関わる部分の新学習指導要領が次々と施行され、小学校でも英語が教科としてスタートします。対応する形で中学入試の科目に英語が追加され、高校以降の入試内容も変化と、学ぶ側にとっても教える側にとっても、忙しい数年間になりそうです。さらに、「原則として英語の授業は All English で行う」とか、大学入学共通テストでは問題文が英語になるとか、変化が目白押しです。
とはいっても、英語の先生の能力が急にレベルアップするわけでも、学校のクラス人数が急に半分になるわけでもないので、掲げる目標をクリアしていける学校がどれだけあるのか、心配になってしまいます。
うすうす気付いていること
生徒も親もうすうす、というかかなりはっきり気付いていると思うことがあります。日本ではほんの一握りの特別な学校を除いて、学習指導要領が改訂される時に掲げられるような立派な目的や目標を「手段」「結果」共に達成することは非常に難しいです。そして多くの場合、特に公立学校では、「手段目標」を達成することが優先され、結果が伴わないのです。
例えば、「英語の授業は英語で、All English で行いましょう!」というような、鳴り物入りで登場した新機軸は崩しがたいものがあります。多くの先生が、付け焼き刃的に「授業で使える英語の指示文」をまる覚えしたり、教科書の指導書から「難しい用語を使わずに英語で文法事項を説明する方法」を仕入れてきたりした授業が展開されるのです。お上が決めた方針に正面から逆らうことは、公立学校ではやはり難しいのが現実です。その感じではなかなか結果は出ません。しかし、高校も大学も生徒学生の質は保ちたいので、入試問題が実情に合わせて簡単になることはありません。ではどうやって帳尻が合ってくるのでしょうか?
塾の話
日本には正規の学校以外に、同じかそれ以上の歴史のある「私塾」という文化があります。なんといっても学習指導要領の影響外にあるので、ルールにしばられず、学ぶ側のニーズに合わせてなんでも組み込める特徴があります(あえて利点とはいいません)。私も学校の教師になる前に塾で5年間ほど教えていたので、そのあたりの事情はよく分かっています。
上の話に戻りますが、学校が「手段目標」の達成がやっとという状況で、「結果目標」を塾が担ってしまう現実が日本にはあります。学校ができるところまで努力して、その中で達成できないことや取りこぼしてしまった生徒は、成績優秀な側も不振な側も、塾が引き受けてしまうのですね。一大産業として成り立っていることからも、この構造の強固さが分かります。
名物先生の「驚愕の一言」!
学生時代に、当時「日本一授業がうまい」と言われた有名な英語の先生と話していて唖然としたことがあります。その先生いわく、「学校の授業では、教育学的に研究された理想的な指導法を展開すればいい。それで十分に身につかない部分は、生徒は塾で補ってくるから大丈夫だよ」というのです。現実的なコメントではありますが、この図式の上にあぐらをかいていては、学習指導要領をどれほど理想的なものに変えても、塾が担う部分が変化、増大していくばかりではないでしょうか。
経済的な理由で塾に通えなかったり、あるいはそもそも塾があまりない地方の生徒は、最初からハンデを背負ってしまうことになります。別の視点で、小学生〜高校生の時期は、将来に向けて、教科内容のみならず幅広い物事に興味関心を持ってもらいたい年齢です。あまり塾通いばかりに終始させたくありません。
『英語教育Cubed』へ
次回より、ブログタイトルを『英語教育Cubed』に変更します。"Cubed"とは「立方した、3乗した」の意味で、対象を3次元軸で見つめたいという意図からです。日本の英語教育・学習は、「国際競争力」「科学技術の進化にともなう指導法・学習法の変化」「日本独特の文化的特性(ここで論じた塾文化など)」という異なる三軸、三つの変数を眺めながら論じるのがいいと考えるからです。いろいろな意味合いで、「英語教育2.0」「英語教育3.0」といった枠組みを立てておられる先生方がおられます。私はあえてそういったジェネレーションによる分類ではなく、3次元軸的アプローチで英語教育のこれからを考えていきたいと思います。
和製英語から見えてくるもの 〜その2〜
前回に引き続き、和製英語から見えてくるものを探ります。正誤対照ではなく、なぜそのような和製英語が定着したのか、という点に着目したいですね。
【語としては存在するが意味が異なるもの】
handle(車のハンドル)
車のハンドルは、英語では steering wheel です。車が好きな人なら、ハンドルと言わずにステアリングという人もいますね。handle とは「とって」のことですが、車に関してこの語が使われれば、ドアを開ける「とって」か、揺れる時に乗員がつかむための「持ち手」を意味します。語源として含まれる hand(手)と手で扱う車のハンドルがイメージ的に親和性が高かったのでしょう。調べた限り、最初からハンドルと呼ばれていたようで、旧来の日本語はなさそうです。
smart(スマート)
英語で smart と言えば、肯定的に「頭がいい」の意味です。「体型がすらっとしている」という意味は全くなく、そちらは英語では slender, slim, skinny, thin と異なる含意の語があります。日本語の「スマート」に最も近いのは slender でしょうか。「スマートフォン」のスマートはこの smart で、電話をかける以外にもいろいろできる「頭のいい電話」の意味ですが、こちらは「スマホ」と略されてしまいましたね。
service(サービス)
英語の service は、「人の役に立つこと」の意味で、「無料」という意味合いはありません。常連客にコーヒーを特別に「サービスで」出す時は、"on the house" と言いますし、ホテルなどでミネラルウォーターが「サービスで」提供されている時は "complimentary" と言います。そもそも、good service に対しては相当のチップを払うという感覚がありますね。
【英語ではあまり使わないもの】
merit / demerit(メリット・デメリット)
この2語は確かに英語ですが、ネイティブはあまり使いません。よく使うのは advantage / disadvantage の方です。「アドバンテージ」というカタカナ語も見ますが、一般的に使われるにはやはり長すぎたのでしょう。短くて簡潔な「長所」「短所」という日本語がありますが、用例検索してみると、「人の性格」について使われる場合がほとんどのようです。「指す相手(照応対象)」によって、日本語とカタカナ語を使い分けている例ですね。
【文法的におかしいもの】
idling stop(アイドリングストップ)
以前このブログで取り上げた表現ですが、idling stop は「エンジンをかけたまま止まる」の意味で、意図した内容の正反対の意味になります。「停車時にエンジンを止める」の意味では、 stop idling となります。これは理由がはっきりしていて、日本語では目的語の後に動詞が来る(「りんご」が「好き」の語順)であるのに対し、英語では動詞の後に目的語が来る("like apples" の語順)であるからです。そのため、「アイドリングを止める」という意味になるためには stop が先に来る必要があるのです。
try and error(トライ&エラー)
英語の and は等位接続詞と呼ばれ、文法的に等価な要素しか結べません。try は「やってみる」を意味する動詞、error は「失敗」を意味する名詞ですので、この2語を and でつなぐことはできません。英語では trial and error(trial は try の名詞形)となります。もし「トライ&エラー」という表現を「何か変だな」と感じていれば、その人の英語の勘はいい感じで育ってきていると思います。
☆【英語に概念が存在しないもの】
paper driver(ペーパードライバー)
全く通じない和製英語の例です。対応する英語もないようです。文化的な背景として、日本のように、「車を運転する予定はないが、便利な身分証明書として運転免許証を取得する」という行動パターンが英語圏に存在しないことが考えられます。
☆【発音が異なるもの、英語+サ変動詞】
coffee(コーヒー)
英語の coffee(発音は「カフィ」に近い)と、日本語の「コーヒー」は発音が大分違いますね。日本に赴任する英米人も「コーヒー」が coffee の発音が変化したものだとは知っていて、日本式の「コーヒー」の発音を練習したりするようです。和製英語と考えられることは少ないですが、pseudo English(擬似英語)などと呼ばれたりします。しかし、日本語でも漢字をあてて「珈琲」なので、上で見たように対応する日本語がないのですね。
drive-suru(ドライブする)
「〜する」という動詞は「サ変」(サ行変格活用)と呼ばれる動詞のグループで、日本語、外来語、擬態語などと結びついて様々な動詞を作ります。「ドライブする」の意味は、「車で比較的長距離を移動してその過程を楽しむ行為」ですが、日本語で簡潔に言い表すことはできません。「運転する」とも「遠出する」とも異なる意味が「ドライブする」にはありますね。このような「英語+日本語」の合体表現も、和製英語の類例としてみなされることがあるようです。
和製英語というと、「△△という表現は和製英語なので、通じませんよ。正しくは○○ですよ〜」という文脈で使われることが多いように思います。しかし今回見てきたように、簡潔で適切な日本語の表現がないために、和製英語が広く使われるようになった例が多いようです。そしてそれは、日本語文化が外国語にルーツを持つ概念的、観念的内容を自国語文化に受け入れることができる「言語的豊かさ」を表しているのではないかと思います。
いつか、和製英語や擬似英語を徹底的に調べて分類し、その背景や歴史的推移を調べてみたいですね。本一冊には十分なりそうです。国語学・英語学・言語文化学・文化人類学の人たちの共通関心事であるはずです。
和製英語から見えてくるもの 〜その1〜
英語教育関連の記事を検索していると、和製英語を取り上げたものは多いですね。日本語に英語「的」な表現が浸透していること、また日本人のそれらへの関心の高さも感じられます。よくある和製英語と対応する本来の英語表現については、下に紹介する他サイトが詳しいです。ここではその分類や、そこから見えてくる日本人の言葉への態度について考えてみます。
日本語サイトの中では読みやすく、正しい表現を示すだけではなく、解説が分かりやすいです。
英語ネイティブの翻訳家の方がまとめたリストです。添えられている英語のコメントが面白いです。
一番有名で悪名高い和製英語は "mansion" とのこと。
ウィキペディア英語版の説明。Wasei-eigo とローマ字タイトルです。日本で使われている和製英語は成立過程も様々で、英語でうまく表現できないのですね。
「和製英語」はその成立過程でいくつかのタイプに分かれます。また、日本人的には「それは和製英語とは言わないのでは…」と思うものでも、英語ネイティブにとっては「和製英語」と思えるものもあったりします。それでは成立過程別に和製英語の特徴を見てみましょう:
【英語を省略、ないし組み合わせた表現】
apart(アパート)
集合住宅の「アパート」は、apartment house ないし apartment です。apart という語は「離れている」の意味で、"Apart from that, ~"(その点は別として)などの定形表現としてビジネスの場面でもよく使われます。過度に省略してしまったパターン。
super(スーパー)
食料品や日用品を買う「スーパー」は、supermarket です。上と同じく省略しすぎパターンです。食料品のみを扱っていて規模が小さい場合は、grocery store とも言います。
☆上の2例は、長い語をあまり好まない日本人が、もとの英語表現のはじめの部分を切り取ってできた和製英語ですね。そして実は、これらを日本語で言おうとすると、「集合住宅」「食料品店」と発音する音節の数ではより長くなります。和製英語が一番手っ取り早いコミュニケーション手段になっていると言えますね。
book cover(ブックカバー)
少し毛色が違います。本の本体が汚れないようにかけるカバーを「ブックカバー」と言いますが、英語では book jacket です。しかし、英語圏では本を買った時に日本のようにブックカバーをかける習慣はあまり一般的ではありません。
英語では、本が話題となっている時に cover と言えば、本の「表紙(裏表紙も含む)」のことです。なので "I like this book cover!" は、その本の「表紙のデザインが好き」というような意味に受け取られます。また、本の要点を拾い読みするのではなく、最初から最後まで「通読」することを、"(read the book) from cover to cover"(表紙から裏表紙まで全部の意味)と言います。
☆この例では book cover, book jacket の長さはさほど違わないので、日本人が「覆うもの=cover」という語感を自然に感じたのか、あるいは book という「物」に対して、「人」が着ることの多い jacket を合わせる組み合わせを不自然に感じたのか、そのあたりが理由になりそうですね。また、book cover を日本語で言おうとすると、「本の汚れ防止の覆い」ですか?うまく日本語になりません。実は「同じ内容を言い表す適切な日本語がそもそも存在しない」和製英語も多いようです。
*** その2へ続く ***
Open と close の話〜英語の非対称性〜
コロナ騒動ですっかり在宅勤務の毎日ですが、週に一度の出勤日に街を歩くと、変わらず営業している店がある一方、閉店を余儀なくされている店も多いようです。この「開店」と「閉店」、英語で看板を出すとすればどうなりますか?二通り見かけますね〜
正しくは「開店」「営業中」は "open"、「閉店」「準備中」は "closed" となります。右側の写真の "close" 看板は、残念ながら間違いです。単語の意味を見てみます:
open 【動詞】開ける 【形容詞】開いた
close 【動詞】閉じる 【形容詞】(距離が)近い、そばにいる
動詞の open-close は対になる表現ですが、「開店」「閉店」は店の状態を示すものなので、動詞ではなく形容詞で表現する対象です。形容詞では、上のように open-close の意味は対になりません。「閉じた」の意味にするには、close を過去分詞形にして、closed とします。検索すると、「誰かによって店が『閉じられた』(The shop is closed.)のだから、受動態を意味する過去分詞を使う」という説明が多いようです。実際にはそう考えるよりも、closed がもともと「閉じた」を意味する形容詞であると考える方がいいと思います。
例えば、「面白い」は interesting だと中1で習いますが、これを「動詞 interest が能動の意味を持つから、現在分詞形の interesting が『興味を持たせる=面白い』の意味になる」と教えることはありませんよね。今回の例でも、単純に open-closed と覚えておけばいいだけと考えます。
* * *
英語が好きな方のために少し深掘りしてみましょう。英語では、最初にある概念を出して、その追概念を表す際に「過去分詞形」が登場することが多いです。
original【形】最初の、元の
<反対語> revised, amended【形】変更・改訂済みの、補足済みの
new【形】新品の
<反対語> used, pre-owned【形】中古の、以前に所有者のいる
(※new が「新しい」の意味の場合は、反対語は old「古い」です)
natural【形】自然な、手を加えていない
<反対語> processed【形】加工済みの、手を加えた
この、「過去分詞を使う時の感覚」をつかめるかどうかは、英語のレベルを上げていく中でとても大切なポイントだと思います。上の例でいくと、「加工済みチーズ」は英語では processed cheese ですが、日本では「プロセスチーズ」となり、過去分詞の -ed が落ちてしまっていますね。一方、used は、すでに「ユーズド」としてカタカナ語としても定着しているように思います。どういう場合に -ed が日本語化できるのか、面白そうなトピックです。
実は本記事に関連して、語彙レベルではなく文法レベルで「非対称」な表現を取り上げようと思っていたのですが、それだけで一記事になってしまうボリュームがあるので、回を改めたいと思います。
フィギュアスケートのジャンプと英語学習
今回のテーマは、「フィギュアスケートのジャンプと英語学習」です。謎なテーマですね。これまでは英語学習のうち、文法に何度か注目したので、今度はリスニング&スピーキングを考えてみたいと思います。
ところで皆さんは、テレビでフィギュアスケート競技を観る時、ジャンプの種類や回転数が分かりますか?解説者は選手がジャンプを跳ぶと、間髪入れず「トリプルアクセル、決まった!」とか「今のはトリプルトウループでしたね〜」とコメントしていますが、皆さん観てわかりますか?実際にはフィギュアスケートのジャンプには6種類あり、それぞれ踏み切る場所や進行方向の別があり、跳ぶ前からどの種類のジャンプになるかはほぼ分かるそうです。しかしそれでも、回転数となるとほとんどの人はお手上げなのではないでしょうか。
「技術審判はなぜジャンプをリアルタイムで見分けることができるのか?」これがお題です。
フィギュアスケートにあまり興味がない方もいらっしゃると思うので、もう一例。クラシック音楽です。次の動画は、ヴィヴァルディ『四季』より『春』です。よく知られている出だしのメロディではなく、1:55〜2:14に出てくるヴァイオリン・ソロの部分を聴いてみてください。
「この速いソロはどういう音符を弾いているのか、聴き分けられるか?」これが上と同じお題です。
私はフィギュアスケートを練習したことはありませんので、ジャンプの種類や回転数は観ていても全く分かりません。一方、音楽には聴く側としても演奏する側としても、またビジネスでも関わってきたので、上の『四季』のソロは音符が細かく聞こえます。この違いは何でしょうか?それは人間の認知特性、「自分でできることは見て・聞いて分かる」、逆に「見る・聞くだけでは細部は分かるようにならない」ということです。
フィギュアスケートの技術審判は、通常世界大会レベルの競技経験者が就任します。テレビ解説も通常、引退した選手がなさっていますよね。音楽の例でも、自分で音楽を演奏しない人は、たとえクラシック音楽に詳しい人でも、上の『四季』の3連符進行を細かく聞き分けるのは難しいと思います。
* * *
本題の英語学習に話題を戻すと、テスト実施や採点の客観性の観点からも、まだまだ Receptive channel(受身技能=聞く・読む)のみの試験が大半です。センター試験もTOEIC L&R も、リスニング試験はありますが、スピーキング試験はありません。自然と、「たくさん聞いてリスニング力を鍛えよう!」となるのですが、たくさん聞き流しても、集中してたくさん聞いても、実のところリスニング力があまり伸びないのはみなさん何となく分かってきているところです。
海外留学したり、仕事で英語を使ったりするようになると、自然と「聞く」力が付いてくるのは、実は「話す」ことをするようになるからです。上のフィギュアスケートと音楽の例と同じく、「自分で話せることは聞いてもよく分かる」なのです。この意味で、最近流行りの「シャドーイング」重視の英語勉強法は、外れてはいないと言えます。赤ちゃんが母語を習得する過程でも、まずは母親の言葉をまねることから始め、意味は理解していなくても、「自分で言えた言葉」は聞き取れるようになっていきます。
その意味では、「英語を話す練習をする前に、十分なインプットを」という発想ではなく、「英語の勉強はインプットとアウトプットを均等に」、あるいはさらに、「インプットしたい内容を先にアウトプットしてみる」くらいの感覚でちょうどいいと思います。この観点から、昔から生徒によく言っていたことがあります。
「英語は常に感情を込めて音読して、自分がアウトプットしながら勉強するのがいいから、図書館では勉強できないよ。英語は自宅で声を出して勉強しよう」
英語基礎演習の思い出
最近読んだ本の中で、著者が最近の理系学生の数学力不足に問題提起をしていました。「少なくとも数学Ⅱ・Bまではきちんと使いこなせるようになって、大学に入ってきて欲しい」。私は学生の数学力が不足しているなら、大学で補習授業を行えばいいのにと思いましたが、事情はそう簡単ではないようです。「高校の復習内容の授業で大学の単位を出すわけにはいかない」確かにそうかもしれません。でもそんなしがらみに囚われていていいのだろうか。そんな時、ふと昔のことを思い出しました。
英語教師になってしばらくした頃、勤めていた学校(都内私立中高一貫校、生徒の学力は総じて高い)の英語科会議の席でのこと。「中学校3年間の文法が定着しておらず、高校英語が日本語訳の丸暗記になってしまっている生徒が一定数いる。どうすべきか?」中高一貫校の弱点として、高校入試というスクリーニング機能が働きません。結果、高1スタート時の生徒間の学力差は公立高校よりも開いていることが多いのです。中学時代に英語でちょっとつまづいたからといって、それ以降英語が嫌いになったり、海外とやりとりする仕事を敬遠するようになったりするのは、もったいない。
* * *
私は教師になる前、大学・大学院時代に5年間ほど、学生講師として学習塾・予備校で主に高校受験の英語指導をしていました(その後、自然と教師を目指すようになりました)。その経験から、生徒がどの単元、文法事項でつまづくことが多いのか、生徒の勉強方法のどこに問題点があるのか、経験的に知っていたように思います。塾や予備校では、必要に応じて手前の学年の補習をすることも、先の学年の先取り学習をすることも自由です。
そこで私は会議で提案しました。「思い切って、中学3年間の復習をする選択科目を高1向けに開講してはどうでしょうか?中3の成績に基づいて、補習科目が必要な生徒を選別、本人に説明して履修を勧める。」他の先生からは反対意見が次々と出ました。中でも強調されたのが、補習科目を受けない他の生徒と比して、「より平易な内容を勉強して、有利な成績が取れてしまうことが不公平にならないか」という点でした。冒頭に書いた数学の件に似ているかもしれません。
私は、「補習科目でいい成績を取ることによって、英語への苦手意識が解消され、興味・関心が戻るならば、むしろ望ましいと思いますよ」と説明しました。他にも、「教材の選定はどうする?」「成績をつける基準は?」といろいろ議題に上がりましたが、「では発案者の私が全部引き受けます」ということで私の案は無事採用となり、高1補習科目「英語基礎演習」がスタートしました。
教材の選定については、提案した段階ですでに目星をつけていました。塾・予備校時代の教材メーカーに連絡し、5年間使っていた公立高校受験用の問題集を取り寄せました。つまりなんと中3用!その科目を選択した生徒は、英語が苦手とはいえ、ハイレベル中高一貫校の生徒です。教材を配った時には「なにこれ、中3用?公立高校受験用?私たち完全にばかにされてる…」とざわめきました。
学年全員が必修の「英語Ⅰ」(現在の「コミュニケーション英語Ⅰ」に相当)で高校英語を習う一方、週に2時間、全クラスから集められた英語苦手のメンバーで、「一般動詞の疑問文を作るには〜」「to 不定詞には3つの用法があって〜」と「超」基礎的な内容をゆっくり勉強しました。結果、「英語Ⅰの成績は赤点なのに、英語基礎演習では10段階中8がついた」という生徒も現れ、苦手意識の克服に一役買ったように思います。学校の性質からか、「苦手な生徒をすくい上げる授業よりも、成績優秀者をより伸ばす授業の方が面白いのでは」と、やんわり嫌味を言われたりもしましたが、私にとってはとてもやりがいのある、思い出深い時間でした。
あれ、また英語が全く出てこない英語教育記事を書いてしまいました〜
私たちが勉強してきた英語(その2)
さて、私たち日本人が学校で勉強してきた英語が、果たして「文法を中心とした学習」だったのかというトピックです。伝統的に特殊なカリキュラムで英語教育をしてきたごく一部の私立学校を除いて、私は「そんなことはない」と思っています。
ここで言う「文法」とは、もちろん「難しそうなものは全部『文法』と言ってしまえ!」という荒っぽい議論に基づくものではなく、文法の本来の定義に基づくものです。
「文法とは、自然言語において語句を構成する際の構造上のルールである」
もちろん、文法なのかそれ以外の要素なのか、切り分けが難しいこともありますが、少なくとも純粋な語彙的内容は文法から外したいと思います。例えば、「高価ではない」ことを表す語には cheap, inexpensive, reasonable などがありますが、この3語の違いは意味とニュアンスの違いであり、構造上の違いではないので、文法ではありません。
では本丸に進みましょう。ずばり言うと、ほとんどの日本人が、中学高校と勉強してきた英語は、文法でも、もちろん読解でも作文でも聞き取りでも会話でもなく、それは「英文和訳」つまり「英語を日本語に訳すこと」ではなかったでしょうか。もっと正確に言うと、教科書や問題集の英文を見て、対応する日本語を「暗記する」作業です。これは、ほぼ英語の勉強ではありません。
実際には、英文の「単語の意味を理解し、主語や文型といった構造に注目して」日本語に置き換えていったはずです。しかし問題はその作業の内訳です。高校3年で受験勉強を始めるまでは、定期テストでそこそこの点数を取るために、どのような勉強をしていたでしょうか。上の、(A)「単語の意味を理解し、主語や文型といった構造に注目して」の部分に1時間を割くのと、(B)「とりあえず日本語訳を暗記しておく」ことに1時間を割くのとでは、圧倒的に後者の方が点数に結びついてしまうのです。本来は(A)の勉強に8割の時間を使い、確認程度に(B)をやっておけばいいのですが、実際は正反対になっていることが多いと思います。
中高生は英語のみならず多くの教科を勉強しますし、教科以外にも学校行事、部活、個人的な習い事ととても多忙です。「効率的にまあまあの成績を取る」勉強法に流れるのはある意味合理的です。また、教育水準の低い学校になるほど、(B)で対応できる問題を出さないとテストの正答率が極端に下がってしまい、成績をつけることができなくなってしまいます。
この話をすると、「ちゃんと英語を勉強していた。ただ日本語訳を暗記していたわけではない」と必ず反論されます。しかし、「中高時代に勉強した英語はあまり役に立たない」と認識する人の割合がそれなりに高く、社会人になって TOEIC の点数などが必要になると、急に大人向けの英語の教材を手に取るのはなぜでしょうか。それはその人たちにとって、中高時代の「英語の勉強」が実は本質的な英語の勉強とはかけ離れていたからと言わざるを得ません。
全く同じ教科書や補助教材を勉強していても、(A)を主眼として英語に取り組んでいた人たちは、高校卒業時にそれなりの英語力を身につけています。一方、上で社会人になって TOEIC の勉強を始めたタイプの人は、ほどなく「TOEIC の勉強では実際の外国人とのコミュニケーションには役に立たない」と言い始めることが多いのです。それはその勉強が、やはり「英語の勉強」ではなく「TOEIC 技術の勉強」になっているからです。
なぜそんなに日本人の英語学習を批判するのかと言われそうですが、むしろ逆です。私は、「日本人は中高であまり英語の勉強をしてこなかった(したのは日本語訳の暗記に過ぎなかった)のだから、多少(本来の意味での)勉強すれば伸びしろは大きい」のだと思います。
私たちが勉強してきた英語(その1)
今回のテーマは、「日本人が勉強してきた英語」です。学校で教わる英語は、時代と共に移り変わっています。しかし多くの人がほぼ一律に、学校での英語教育を「文法を中心とした学習だったので、実用的ではなかった」と捉えているのではないでしょうか?
例えば数学のカリキュラムでは、互いに関係のうすい単元が存在し得ます。中学校のカリキュラムを例に取れば、「二次方程式」と「多角形の性質」はほぼ関連がありません。しかし英語ではこうしたことが起きにくいのです。教科書以外の副教材を考えてみてください。
文法をターゲットとした参考書では、例文が示されてそこに含まれる文法構造が解説されます。そして例文にはいろいろな語彙(単語)が用いられます。語彙なく文法を解説することは不可能です。他方、語彙をターゲットとした単語集でも、通常見出語を用いた例文が提示され、そこには文法事項が関係します。言語学の統語論(syntax)という分野では、実際の英文は最小限しか用いず、文法構造を数式のように提示して論じることがありますが、高校までの教育ではそういうことはありません。つまり、「文法」「語彙(単語)」という二つの要素を切り離すことはできないのです。
教師時代に、カナダ人のALT (Assistant Language Teacher = 外国語指導助手)と一緒に授業をしていた時のことです。
a. Her face was expressionless.(彼女は無表情だった)
b. Her face was inexpressive.(同上:a, b 共に正しい文)
下線部の expressionless と inexpressive という語はどういう違いがあるか、という生徒からの質問に、その先生は、
"expressionless" は断定的で、「いつも無表情」という感じで、"inexpressive" は「たまたまその時無表情」っていう感じね。これだから「文法は難しいね!」と言ったのです。説明の内容もあまり当たっていませんが、それよりも何よりも「語のニュアンスが違って難しい」という事実に対して、"Grammar is difficult!"(文法は難しいね)と言ったことにびっくり仰天しました。これは文法ではなく、語彙の問題です。同じ語彙に関して文法が話題となるのは、次のような場合です。
a. He told me inexpressively that he had to go.(もう行かなきゃと彼は無表情に言った)
*b. He told me inexpressive that he had to go.(同上、しかし文法的に間違い)
この場合、inexpressively / inexpressive(無表情に)の部分は、動詞である「言った」の部分に係るので、副詞である必要があります。ですので、正しいのは a の inexpressively となります(言語学では b のように誤用・非標準とされる表現に * をつけます)。
そのカナダ人、英語教育の専門家ではないとはいえ(大学時代の専攻は心理学だったそうです)、英語のネイティブ・スピーカーです。この出来事の後、あるトピックが「語彙の範疇か、文法の範疇か」は実はなかなか難しい内容であり、「分かりづらくて難しいもの」をとりあえず全部「文法」と呼んでしまおう、的な雰囲気があるのではないかと気づきました。
多くの日本人が、学校で学んだ英語について「文法を中心とした学習だったので、実用的ではなかった」と捉えている背景には、この感覚があるように思います。本当に「文法を中心とした」授業を受けていましたか?中間テストや期末テストの前には、そんなに文法の勉強をしましたか?私はそんなことはない、と思っています。ではどうだったか、次回「その2」で説明したいと思います。